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2020/09/22

WYSIWYGを超えていけ

 パソコンは、見ている画面と、最終的に紙に印刷して得られる出力が一致することをめざしてきたといってもいい。それがWhat You See Is What You Getの頭文字をとったWYSIWYGだ。でも、それでは紙を超えられない。紙を超えなければ紙以上のことができないのにだ。

画面と紙は違う

 画面で見やすい体裁と印刷した紙で見やすい体裁は違う。最適な書体だって違う。だから、印刷前提ではないコンテンツについては、画面で見やすく編集もしやすいようにWordの入力画面を工夫してみたりもしている。

 この10年間くらいのあいだに、ぼくらが読む文章の多くがウェブで配信されているものとなって、コンテンツの編集作業そのものが紙を前提としなくなってきている。WYSIWYGも、紙に印刷した結果というのに限定されるのではなく、ウェブの画面で見たときの画面が編集画面と一致することが求められるようになり、それまでのデスクトップパブリッシング的な意味合いとは違ってきてきている。たとえば、ブラウザで表示したときには使いやすくて見やすいウェブサービスのページを紙に印刷してみよう。どうにもチグハグな印象を持たないだろうか。

 

読んで悲しい「なんちゃって電子書籍」

 逆に、美しくレイアウトされたコンテンツページは、想定されたサイズの用紙に印刷したときには、とても読みやすい。ところが、それを小さな画面で見たりしたときには絶望する。いわゆる「なんちゃって電子書籍」がそうだ。ただ単に紙に印刷する代わりに、それと同じコンテンツを画面に表示するだけのものを、ぼく自身は「なんちゃって電子書籍」と呼んでいる。旅行書ムックなどを10インチ程度のタブレットで開いて読んだときの失望感たるや本当に悲しくなる。

 小説などは、そのコンテンツ全体が文字だけで構成されている。そして本文がほとんどだ。それを画面サイズや読者の視力、趣味に応じて一画面あたりの体裁を自分で決めて読み進めることができるようになっている。設定によって版面は自由自在で、文字サイズや1行の文字数、行間なども読者の自由になる。その設定に応じて本文データがリフローされて表示されるのだ。それでこそ電子書籍だと思っている。

 反面、書籍にだってデザイナーの仕事が介在しているわけで、もっとも美しい状態で本文を読み進めてもらえるように考え抜かれている。電子書籍のリフローは、その工夫を台無しにし、画一化する行為だといってもいい。

 そもそも大元のコンテンツを作るときに、最終形態が想定され、それに左右されることが本当にいいのかどうか。小説家だって50型の大画面で自分の小説が読まれることなんて想定していなかったにちがいない。でも、今はそういう世代の作家が生まれつつあるかもしれない。企画書をひとつ作るときにも、そういうことを考えてみると、コンテンツの本質というものが見えてくるかもしれない。